──明朝。 キルシュはユーリの御する馬車に揺られていた。 ……昨晩、ケルンは本物の神に成ってしまった。 だが、その悍ましい見た目と同様に、それは決して善なる神ではなかった。 ケルンは、あの直後──人を殺めた。「神堕ろしが成功した」と喜ぶ聖職者を、熱線で焼き払ったのだ。 ほんの一瞬の出来事だった。悲鳴もなく、骨すら残らず塵のように消え、影だけが焼き付いた。 イグナーツはそれを見て、卒倒した。 だが、なぜケルンだったものが、この聖職者を狙ったのかはキルシュには分かった。 なぜなら、《狂信者(ファナティカー)》たちのように、彼の本当の言葉が聞こえたからだ。〝こんな形で恨みを晴らしたって……今更、何が戻るというんだ〟 その言葉から、聖職者に深い因縁があったのだと思しい。 鐘の音とともに脳裏に火の粉が舞う。孤児院を焼かれたあの日の事だ。随分と歳を取ったが、あの聖職者がいた事をキルシュが鮮明に思い出した。 〝殺したいくらい恨んでいるが、本当にそうしたい訳じゃない!〟 ──俺はこんな事、望んでいない。 本当の彼自身は、人を殺めた事への自責の念に苛まれていた。 それでよく理解できた。こうなった彼は《狂信者》とほぼ同じ。自ら意志に関係無く、憎悪で動く生き物と化したのだ。 〝ごめん……ごめんな。俺、キルシュを守れてさえいなかった〟〝俺、無責任で最低だ……ごめん。約束守れなかった〟〝こんな醜い俺を見ないでくれ〟 ──早く消えるしかない。どうにかして、俺を止めないと。 その焦燥の言葉の後、禍々しい鳴き声とともに、慟哭が劈いた。 〝死にたくない、嫌だ! これ以上、手離したくない!〟〝こんな終わり方は聞いていない!〟〝キルシュといたかった……ずっと一緒にい
縄にかけられたキルシュとシュネは、渡り廊下を歩んでいた。 イグナーツとユーリ。そして、聖職者らしき老人に連れられ辿り着いた先は、屋敷奥の小さな礼拝堂だった。 臙脂色のカーペットに規則正しく並ぶ長椅子。祭壇中央には国教の象徴──機械仕掛けの偶像を象ったステンドグラスが嵌められている。 キルシュがここを訪れたのは、義父の葬儀のときただ一度。あのときと同じく、祭壇の上には白い棺が置かれ、清楚な白百合が飾られている。 まるでこれから誰かの葬儀が始まるかのように──。 キルシュは青ざめた唇を拉げて、イグナーツを睨み据える。 「器だ。お前たち贄の乙女は、その心臓を捧げるために存在する」 イグナーツの狂気じみた言葉に、キルシュは動じなかった。命に関わることなど、とっくに想定済みだった。 「器……」 訝しげに棺を覗き込んだその瞬間、キルシュは言葉を失った。 そこにいたのは、ケルンだった。 白百合に囲まれ、冷たく静かに眠るような顔。胸は上下せず、秒針のような音もしない。手は組まれ、肌は死人のように白く、微かに焦げた匂いすら漂っていた。 ──どうして? なぜ、こんなことに? 偶像の使徒である彼が倒されるはずがない。その圧倒的な火力は、能有りなど比ではないのに。「どうして……」 声は震え、心は砕けていく。 別れが来る事は、どこかで分かっていた。けれど──なぜ今なのか。 彼はこれを知っていたのか。しかし、道中を思い出しても、そんな風に見えなかった。きっと彼だって、こうなるだなんて想像していなかった筈。 脳は耐えがたい現実を全て拒絶した。 「嘘よ……そんな……ケルン」「ほぅ。この方の事を思い出していたのか。父が何度も〝不要な記憶〟として洗い流した筈なのだが──」 イグナーツの淡々とし
一歩、二歩と後退りするケルンは、窮地に立たされていた。 自分の力は通常の能有りよりも強い。この力は二人殺めるに充分過ぎる程の殺傷能力がある。だが、感情のままに動く事も、人を殺める事も自分の身に良くない事だとケルンも理解していた。 感情的になるな。落ちつけ。ケルンはひとつ息を抜く。「おい。その前に訊かせろ。おまえの信仰する〝唯一神〟とは誰だ」 ケルンは静かに訊くが、聖職者は何も応えない。 男の使用人は怯え切った瞳のまま、ケルンを見つめていた。 (こちらの話は無視。無駄か……) 舌打ちをした瞬間。またもギシギシと音を上げて、内部を侵す金属の浸食が始まった。抑えきれぬ怒りに、紋様のある手からは権能の力は溢れ出す。 自分の周りは真昼のように煌々と明るくなり、背後には幾何学模様の歯車がゆったりと回り始める。 ──意図せぬ臨戦態勢だった。 (だめだ。殺すな……抑えろ、怒るな) 肩で息をしながら、ケルンは自分を必死に戒める。 本当は殺したい。憎い。だが、それでは全てが〝あちら側〟の思う壺だ。 何とか打開策を探さねばならない──そう思考を巡らせるも、まともな演算すらできない。 ファオルは聴くだけの、傍観者だ。クレプシドラの目となり耳という役割でこの場面に介入したところで、何もできないのはケルンも分かっていた。 その証拠と言わんばかりに、気配は近くで感じる。 耳をすませば、啜り泣く声が聞こえるもので……。 完全な窮地である。だが、それは使用人の男も同じだろう。彼は真っ白な顔でケルンを見て絶望の面輪を浮かべている。 この表情から察する。恐らく、この男は〝刃向かえない境遇〟なだけだろう。 或いは洗脳だのそういった類いで操作されているのだろうかと。 ならば、この男を説得するのが一番だ。ケルンが彼と向きあったと同時だった。「早くなさい」 冷たく響いた聖職者の命令に、使用人の
──伯爵家の敷地は広大だった。 母屋、離れともに石造り。その二つの建物を繋ぐ渡り廊下は緩やかな湾曲を描く屋根がついていて、側面に置かれたトレリスに葉を落とした蔓薔薇がびっしりと絡んでいた。 離れの奥には礼拝堂がある。 円錐型の屋根の上には歯車の中の火輪。その下には均等な長さの十字。それらを、翼を広げて強靱な足で掴む鷹のレリーフ──ツァール聖教の象徴が掲げられていた。 ケルンは物心ついた時から、ヴィーゼ伯爵領に居た。 小高い丘の上に佇むこの屋敷は景色の一部で馴染みがある。けれど、実際に足を踏み入れたのは今日が初めてだった。 見上げた空は、沈黙を抱いていた。 やがて、雪がしんしんと降り始める。母屋の屋根の上、ケルンは白い息を吐いて屋敷全体を眺めた。 しかし、なかなか動きが見えない。 キルシュが屋敷に辿り着いたのは遠目で分かったが、今は恐らく母屋の玄関ポーチの下。突き出した屋根に隠れているので状況が掴めない。(せめて会話が聞こえるくらいまで移動するか……) 動こうとしたその瞬間だった。途端にファオルの叫びが劈いた。 何事か。ケルンは迅速に玄関ポーチの上へ移る。同時に傍らで光の渦が弾けた。 『──キルシュが捕まった! 相手は能有りの使用人! 急げ!』 返事もせずケルンは屋根から飛び降り、雪を巻き上げ着地した。 舞い上がる粉雪のベール。それが晴れて、目にしたものにケルンは、たちまち目を吊り上げた。 使用人服を召した金髪の男がキルシュを抱えてそこに居た。 気絶しているのだろう。キルシュは使用人の腕の中でぐったりとして、目を閉ざしている。 彼女は養女だろうが、使用人からすれば、一応〝お嬢様〟という身分。屋敷の者に叱責される事はあったとしても、気を失う程の折檻は度が過ぎているだろう。 それも能有りの力を使ってだの……。「おい。キルシュに何をした」 ケルンは真っ直ぐに睨み据える。使用人の
暫くしてもキルシュは何も答えられないままだった。 静謐の中で、シュネが啜り泣く声だけが響き渡る。 だが、シュネ立場で考えれば理解できる。 もし、同じ状況下に置かれたとなれば、自分だって同じ事をするだろう。そもそも彼女を責めるのは筋違いだ。 義兄の婚約者と隠していた事においても、彼女が捕縛された事においても、何一つ彼女を責める部分などない。〝隠していた〟だけで、彼女は何一つ悪い事なんてしていない。寧ろ、義兄の毒牙にかかった犠牲者に違わないだろう。(能有り能無しを抜きにしても、女を何だと思っているの……同じ人間に変わりないのに) ボロボロになった彼女の姿を見るだけで、酷く心が軋む。 それでも、先程聞いた言葉の意味を、どうしても確かめずにはいられなかった。キルシュは鉄格子の向こうで肩を震わせるシュネに、そっと声をかける。 「ねぇ、シュネさん。さっき言っていた《蝕》って何……?」 キルシュの問いかけにシュネは、顔を伏せたまま、膝に落とした手をぎゅっと握りしめた。 その指がかすかに震えているのを、キルシュは見逃さなかった。 「……能有りを人間とさえみなさない、国境過激派諸派よ。歴史の中で何度も能有りの虐殺を行ってきた」 ──それが《蝕》。イグナーツ様は……違う。ヴィーゼ伯爵家そのものが代々信心の深い信徒だった。 その言葉を聞いた瞬間、キルシュの中で何かが外れた。 まるで心の奥に、閉じられていた扉が、ひとつ、音を立てて開いた心地がした。 脳裏で火の粉が舞う──刺すような冷たい空気の中で燃え盛る炎の熱さ。建物を燃やす轟音と子どもたちの悲鳴や泣き声。そして、血まみれで地面に突っ伏せた伏せた大好きな親友。 ボーン、ボーン……と低く響く柱時計の鐘の音が耳の奥で響き渡る。 身体の自由を奪われた上、目隠しをされて呪詛のような言葉の羅列……。
遠くでシュネの呼ぶ声が聞こえて、キルシュは瞼を動かした。 確か、消息を絶ったシュネを探しにレルヒェの街に降りて……伯爵家に帰って。その一連を思い出した途端、キルシュははっと瞼を開けた。 (シュネさん……!) しかし随分と埃臭い。横たわっていた場所は、煤けた簡素な寝台の上──キルシュは体を起こし上げてすぐだった。「キルシュちゃん! ここよ!」 シュネの声はやはり幻聴ではなかった。キルシュが急ぎ、声の方を向くが絶句した。目の前には鉄格子。向かいの房にシュネがいた。 しかし、黒衣のドレスの胸元は破れ、髪の毛は随分と乱れていていた。頬を撲たれたのか腫れている。それに彼女の瞳は赤々と充血し、溺れるように潤っていて……。 まるで──〝乱暴でもされた〟ようだった。彼女の姿を見てキルシュは青くなるが、すぐさま、彼女に近付こうと鉄格子に寄って、初めて違和に気付いた。 キルシュの両手には手かせが嵌められていた。 その手の甲に浮かぶ「能有りの証」である紋様は、赤い塗料でべっとりと上書きされている。 ──火輪に似た形。その周囲を囲う歯車、機械仕掛けの羽根、そして栄光を象徴する光。それはまるで、ケルンの紋様に、国教の全てをなぞったかのような、奇妙な印だった。「……何、これ」 ぞっとして、キルシュは訝しげにそれを見つめる。 だが不思議な事に、力が湧いてこない。こんな状況なら、蔓草が勝手に現れてもおかしくないはずなのに。(もしかして……権能を無効化して、《心》を遮断している?) 屋敷に戻ってからの記憶は曖昧で、ユーリに会った後、何が起きたのかすら掴めなかった。 ただひとつ、シュネが生きていた事だけが確かな救いだった。 向かいの牢の彼女に、キルシュは声をかける。「シュネさん……無事でよかった。大きな怪我はしていませんか?」